勉強するということ

親愛なる皆様
おはようございます。

ある考えがあって、このほど、日本商業ラッピング協会
の検定試験を受けました。理由を書くと長くなりますが、
とにかく試験を受けました。合否の結果は約1か月後で
すが、結果よりも何よりも、受験の為に勉強するという
行為を何年ぶり、いや何十年ぶりにしたことが大変貴重
な経験だった。試験は筆記と実技でしたが、前日までに
予習もし、当日も会場に向かう電車の中でテキストを何
度も読み返し、試験中もそれなりに緊張もし・・・この
程度でこんな思いをするわけですから、高校や大学受験
の若者はさぞかし大変だろとうと受験生の苦労を今更な
がら思った。

折角なんで、ラッピングについて、にわか仕込みの蘊蓄
(うんちく)を少し語ろうと思う。
ラッピングという言葉は1970年代後半使われるよう
なりますが、その起源は実に飛鳥時代にまで遡る。
稲作の技術がもたらされ人々が定住するようになると、
短い期間に種苗・作付・収穫など、地縁、血縁をあげて
の協力関係なしには糧を得られなかった。他人の力を頼
むことの大切さを身に染みて知り、必然的に人を遇する
真剣な気配りが習慣化された。
日常的な営みの中では、食物などを手渡しは普通であって
も、祭事、神事における直の受け渡しは、穢れを他に移す
ことがないように、木の葉などに載せて行なわれた。
飛鳥時代初期にこの地に紙とその製法が伝わり、上流階級
の暮らしの中で紙を使ってモノを包むことが美しく、且つ
便利な事として利用されるようになった。
その後、鎌倉時代から江戸時代に移行されていく中で、
格式の表現方法としての作法が徹底されたり、外交において
の進物が行なわれ、形式を重んじる文化と共に包みや結びは
有力武家の外交戦略の中で生じ、進化していった。
その後、産業革命以降、西欧文化の受容、工業化による
大量生産、大量消費、売り手市場から買い手市場へ。
格式の表現方法から、ビジネスの為の梱包~包装~ラッピング
と、時代環境と人々のライフスタイルと共に形を変えていった
・・・ と、まぁ、少し長くなってしまったが、
たかがラッピング、されどラッピング、学ぶと実に奥が深い。

勉強していて、私が特に興味深かったのは、上にも書いた
「稲作の技術がもたらされ人々が定住するようになると、
短い期間に種苗・作付・収穫など、地縁、血縁をあげて
の協力関係なしには糧を得られなかった。他人の力を頼
むことの大切さを身に染みて知り、必然的に人を遇する
真剣な気配りが習慣化された」 この部分。
農耕民族である日本人特有の結の思想、謙譲の心や奥
ゆかしさの起源をも垣間見ることができたこと、多様性の
時代にあっても日本人の根本に流れる素晴らしい民族性
を確認することができたこと。

ラッピングの勉強(勉強と云えるほどしてないが^^;)を
ほんの少しだけかじっただけだが、一つのことを深掘りし
ていくと、そこから様々な事に繋がり思わぬ気付きがあったり、
そこから更に学んでみたいという新たな意欲も湧いてくるもの
だと、〝勉強する〟ということはこういうことなんやと、
若い頃に気付いていれば、だいぶ違った人生になっていたで
あろうと、若い頃は全く勉強と縁のなかった齢五十を超えた
手遅れ知恵遅れのオッサンは今更ながら思うのであります。

今日も一日良い日に致します。
物流応援され団長・山田 押忍!

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